自分が少数派になってわかったこと。「多様な子どもたち」が前提の教育を

障害などのマイノリティ性のある子どもたちも含めた多様な子どもたちがいることが前提の教育環境をつくるため、インクルージョン(包摂)の研究をしている野口晃菜さん。アメリカで暮らした自身の子ども時代の経験とともに、インクルージョンのために必要なことを聞きました。

アメリカで障害のある子どもが当たり前にいる環境で気づいたこと

アメリカで障害のある子どもと一緒に学んで気づいたこと

大学でインクルージョン研究を学び、現在、いろんな出自や障害をもつ子どもたちが、ともに学べる環境づくりを一般社団法人で行っている野口晃菜さん。野口さんはこれまで、学校や民間企業において知的障害・発達障害のある子どもへの直接的な支援や、教職員など関わる大人への研修、教材・プログラム開発など幅広く活動を行ってきました。そもそも、野口さんがこのテーマに関心をもったのは、自身が小学校のときにアメリカに引っ越したことがきっかけでした。

「日本に小学校6年生まで住んでいましたが、それまで学校で障害のある同級生と一緒に学ぶことはありませんでした。通っていた学校に、障害のある子どもが学ぶ学級もなかったですし、そもそも障害のある人と接することがないまま地域で過ごしていました。それが当たり前だったし、自分は周りと同じ、ごく普通の子どもだと思っていましたね。

その後、小学校6年生の途中から、父の転勤で、家族でアメリカのイリノイ州に引っ越しました。そのとき初めて、『自分以外の周りの人が英語で会話をしている』という環境を経験したんです。そこで気づいたことがいくつかありました。一つは、同じクラスに車いすの子や発達障害の子がいて、その子たちと一緒に学ぶこと。これは新しい体験でした。また、隣のクラスには脳性まひで言葉での表出がない子もいました。

日本でも同じように障害のある子どもはいるはずなのに、これまでなぜ出会ったことがなかったんだろう?と不思議に感じました。」

アメリカでは90年代から2000年代にかけて、ADHDやLDなどの発達障害の診断を受ける子の数がすごく増えた時期だったそう。

「そういった背景もあって、高校生のときに隣に座っている子が『オレADHDだからちょっと薬飲んでくるわ』みたいな感じで、カジュアルに言うようなこともあって。発達障害のある同級生との関わりも日常生活でたくさんありました」

「気づいたことのもう一つは、自分自身のマイノリティ性でした。英語が全然わからない、文化もわからないなかで、ポンと現地の学校に入って…。初日は給食のもらい方がわからなくて泣きました。

ほかの人たちが当たり前に生活しているなか、『自分だけがそこで不便を感じている』。それまでに感じたことがなかった経験でした」。

こうしてアメリカでさまざまな子どもたちと一緒に学ぶことになった野口さんですが、当初は自分自身が日本人=マイノリティであることに劣等感を抱いていたそうです。

「小学校6年生から高校3年生までアメリカにいたんですが、引っ越してから2、3年は、「アメリカ人になりたい」とずっと思ってました。

なので、日本人であることを隠す、じゃないですけど、自分のアイデンティティに対して、劣等感をもっていました。これは、私が「もっていた」というより、特定の人種や言語が優位な環境によってもたされていた。劣等感を内面化させていた、と今は思います」

9.11をきっかけにアイデンティティを考えるように

9.11をきっかけにアイデンティティを考えるように

そんなアメリカでの暮らしにも少しずつ慣れた頃、2001年9月11日に同時多発テロ事件が起こりました。

「ちょうど私が学校に通っていたときに、呼び集められて、「こういう事件が起こって~」とニュースを観たり、話を聞いたり、ということがあったんです。

あーやばいこれ戦争になるんじゃないの?ってみんな騒いでたんですが、次の日から学校で国旗に向かって立って宣誓の言葉をいうようになって。

小学校の頃は意味がわからずに宣誓の言葉を私も一緒に言っていたのですが、その頃には英語の意味もわかるようになっていたので、宣誓の内容を考え直して、「これって本当に私も立って言う必要あるのかな?」って。ずっとアメリカ人になりたい、って思ってたけど、「アメリカのために誓います」ってなんだかすごく違和感あるなって。それも報復する、って言ってるし。私は戦争はよくないって思っていたので、それってどうなんだろう?って。」

また、同級生の日本に対する考え方を聞いて驚くとともに、ショックを受けることもあったといいます。

「9.11のあとに仲がいいと思っていた白人の女の子と『誰がやったんだろうね』って話していたときに、その子に『日本じゃないと思うよ。晃菜大丈夫だよ。だって日本はパールハーバーでもう学んだでしょ』みたいなことを言われて。『うわーそんなこと言うんだ!』って。要は『日本はそれで原爆落とされたから2度とそういうことはやらないでしょ』という意味ですよね」

こうしたことが自分のアイデンティティについて、深く考えるきっかけになったそう。

「そういうこともあって初めて、「ああ私はアメリカ人ではないな」、って感じたんですよね。

自分のアイデンティティは、“完全なアメリカ人でもないし、完全な日本人でもない”、って考えるようになって。でも自分は自分らしく生きていくのがいいな、と思いはじめ、これは“いかに自分のマジョリティ性やマイノリティ性という社会における立場が、自分のアイデンティティに影響するか”、というのを感じた出来事でしたね」。

それまでは、周りに合わせるということを自分の軸にしていましたが、“自分らしさが大事で、いろんな違いがある人の中で生きていく”ということを、自覚したそうです。

多様な人がただ一緒にいるだけでは差別はなくならない

障害のある子と一緒にいるだけでは差別はなくならない

その後、日本に帰国して大学を受験。大学では多様な子どもたちが一緒に学べる環境づくりをテーマに、インクルーシブ教育の研究を行いました。そのなかで見えてきた課題はどんなものだったのでしょうか?

「マジョリティ=多数派のなかにいたらそれが当たり前になってしまうので、『おかしいかも?』って疑うことすらしないですよね。完全に『そういうもの』だと刷り込まれてしまっている。

マジョリティ中心につくられた社会の中で、“障害のある子とない子がただ一緒にいるだけでは差別はなくならないのでは”と思っています。アメリカでは、白人の友人と私は共に学んでいました。一方で、上記のような差別的な発言は多くありました。つまり、ただ共に過ごすだけではなく、アメリカでは白人で英語が第一言語の人が中心の社会になっているか、や、今の社会がいかに障害のない人が中心の社会になっているか、を知る必要があると思うのです。」

インクルーシブ教育を行うときも、「ただ一緒にいる」というだけではなくて、その中で、いかに今の社会が『障害がない人など、マジョリティを中心につくられた社会か』、ということを、障害の有無を問わずみんなが知る機会がすごく大切だと考えているそうです。

「“違う立場にいる人同士が、違う風景をみている人がいるということ。

こういうことこそ本来は『学校で一番学べることで、学校でしか学べないこと』なはずなんです。だから、ただ一緒にいる、ただ混ざるだけじゃなく、今の社会のありようが私たちのアイデンティティや関係性にどう影響しているのかを学ぶ機会をつくっていきたいと思っています。」

野口晃菜さん
野口晃菜さん

【野口晃菜さん】
一般社団法人UNIVA理事/国士舘大学非常勤講師。小6でアメリカへ渡り、障害児教育に関心を持つ。その後筑波大学にて多様な子どもが共に学ぶインクルーシブ教育について研究。小学校講師を経て、株式会社LITALICO研究所長として、学校・少年院等との共同研究や連携などに取り組み、その後一般社団法人UNIVAの立ち上げに参画、理事に就任。インクルージョン実現のために研究と実践と政策を結ぶのがライフワーク。経産省産業構造審議会教育イノベーション小委員会委員、文科省新しい時代の特別支援教育の在り方に関する有識者会議委員、日本LD学会国際委員など。共著に「発達障害のある子どもと周囲の関係性を支援する」など