滑川の魅力を再認識。まち並みを散策して歴史をたどるガイドツアー開催

WEBライターを経たのち、現在は富山県滑川市の地域おこし協力隊として活動する田中啓悟さん。今回は、歴史をたどりながら滑川のまちを散策する「まち歩きガイドツアー」の様子をレポートします。

時代とともに大きく姿を変えた滑川のまち並み

地図をみながら説明する人
街道沿いが栄えていたころの地図で、当時の滑川を解説

 かつては北陸街道が通り、当時のまち並みが残るエリアがある滑川市。その魅力を再認識してもらおうと、2024年11月、滑川市立博物館の近藤館長をガイドに迎え、「すべらないまち滑川をタイムトリップ まち歩きガイドツアー」が開催されました。参加費は無料。

 ツアーは、滑川市内の歴史を学ぶことからスタート。現在、滑川の市街地は国道が走る市内の中心地域ですが、昔は海にいちばん近い通りの周辺でした。距離にすると2㎞ほどですが、時代ともに徐々に移り変わっていったのです。まだ北陸街道が機能し、滑川宿という宿場町が形成されていた頃の往来は、とてつもなかったのだとか。

 かつて栄えた海側のエリアは、当時のまち並みこそ残るものの、都市機能は市の中心へ移動。活気あふれるまちの入り口となる道路もまた、大きく姿を変えていったのです。

 滑川市は昔から、河川が市内を縦横無尽に駆けめぐるような構造をしていたのですが、水害対策や、転落事故などが多発したことも原因となり、今では多くが道路化されています。水路が行き交う個性的な景観は、こうして私たちが利用しやすいように姿を変えていったようです。

写真と建物を見比べる人々
現行の駅舎と昔の駅舎を見比べる

 旧北陸街道の近くを通っている富山地方鉄道の中滑川駅舎も、当時の名残を感じられるようなデザインが施されているものの、今と昔の姿はかなり違っています。

古い建物
すすけた看板に、うっすらと「こんぶや」の文字が

 旧北陸街道を中心に、多くの商店が立ち並んだ「晒屋(さらしや)」というエリアには、幾度の変遷を遂げてきたであろう商店も残っています。すすけた看板には、うっすらとですが店名である「こんぶや」の文字が確認できます。

宿場町のおもかげを残す瀬羽町エリア

建物が並ぶまち並み
現在の瀬羽町(旧北陸街道)

 かつてにぎわった海辺のまち、瀬羽町(せわまち)。当時の面影が残る住居や、滑川宿特有のまちの形が残っているおかげもあり、最近ではカフェや雑貨屋さんなど、新しいお店が誕生して再びにぎわいを見せています。

滑川市のまち並み
(写真左)かつては海が見えないほどの小舟があった。(写真右)昔ながらの看板建築

 富山湾へと流れ着く川には、昔は先が見えないほどの小舟がつながれていたようです。自分が子どもの頃であれば、因幡の白兎のように小舟の上で飛び跳ねていたかもしれません。

 道中、今ではあまり見られなくなった看板建築の建物に出会いました。この辺りの地域はとくに看板建築が多かったそうで、商店が立ち並んでいたかつての風景がよみがえります。

古い建物
(写真左)街道沿いに残る住宅店蔵 (写真右)「むくり屋根」

 街道沿いに残る小沢家住宅店蔵は明治後期に建てられ、黒漆喰で塗られた壁と観音開きの扉を持つ土蔵造りの建物。国登録有形文化財にも指定されており、店主はかつて呉服商を営んでいたそうです。

 日本独自に発展してきたとされている屋根の建築様式として、屋根の斜面が丸く盛り上がる「むくり屋根」というものが存在します。全国的に商家や数寄屋建築に多いことから、ここ小沢家でも採用されていたよう。

道に立って話をする人々
ツアーの最後は本陣跡地へ

 最後にやってきたのは滑川宿の顔である本陣。本陣とは宿場町において、大名などの身分の高い人が宿泊する施設で、大旅籠屋とも呼ばれます。滑川の本陣は最終的に別の場所へ機能を移し、現在はその歴史をつづる看板が残るのみとなりました。

 滑川の古い建物の価値は今の時代にも継承され、さまざまな人の尽力で利活用されています。皆さんのまちにも、なんのためにあるのか、どういった歴史があるのかわからず気になっている建物がありませんか? たまには解説役を交えてぶらっと歩いてみると、新しい発見があるかもしれませんよ。

<取材・文・撮影/田中啓悟>

田中啓悟さん】
大阪府大阪市出身。大阪の専門学校を卒業後、WEBライターとしてデジタルゲーム関連の記事を執筆。その後、「訪れたことがない」という理由で富山県に移住し、地域おこし協力隊として、空き家バンクの運用・空き家の利活用をメインに、地域の魅力発信やイベントの企画に携わっている。