―[移住コンシェルジュ・尾鷲市漁村の田舎暮らし/第6回目]―
三重県南部の海沿いの町、尾鷲市に地域おこし協力隊として移住した郷橋正成さん。移住コンシェルジュとして奮闘していますが、そんな日々で出会った人や出来事をつづってくれます。今回は、Uターンして地元で農業を始めた男性を紹介してくれました。
料理人から農家へ。Uターンで尾鷲に戻りました
Uターンで尾鷲に戻ってきた庄司和稔さん(31歳)。高校卒業後、料理人を目指し上京。料理学校を卒業し、東京や北海道でホテルの調理場やフレンチ店など働くうちに、食材への興味から口にするものへの探求が始まったそうです。
一念発起し、農業を学ぶため三重県の農業大学校へ入学。そのかたわら、最良の地を求め各地を探すが、なかなか貸してもらえる農地もないなかで、地元尾鷲に耕作放棄地があることに着目したそう。
漁村のイメージが強い尾鷲市ですが、農業の盛んな地域もあります。市の南側に位置する三木里町では、過疎化が進み、半世紀近く放置された耕作地が点在していました。
庄司さんがこの畑を紹介されたときは直径40~50cmの木が無数に生え、シダやアシがうっそうと茂った、ジャングルのような土地だったそう。
生い茂った木々を伐採するうちに、先人がつくりあげた石垣が顔を出し、かつては農業で栄えた三木里の景色が見えてきました。
優しい味や香りの野菜を育てている
庄司さんがつくる野菜は、牛糞や鶏糞などのたい肥を使わない農法で育てられています。よく口にする野菜とは違い、香りや味が優しく、すっきりしているのが特徴。
土の味をダイレクトに受ける、みずみずしい野菜たちにほれ込んだのが農業を志したきっかけでもあり、自然環境と対話しながら試行錯誤を繰り返しています。
そのおかげか「ピーマン嫌いの子どもが食べれるようになった」と声をかけられることもあるそう。庄司さんの畑ではナス、ピーマン、キュウリ、カボチャ、トウモロコシ、ブロッコリーなど、少量多品目な栽培をしていて、今はオクラの最盛期だそうです。
移住者が増えて、今まで尾鷲になかったことが増えるのがうれしい
そんな庄司さんに移住や、Uターンについて伺ってみました。
「高校生の頃から県外で働きたいと思うようになりました。同時に『30歳頃までには地元に戻りたい』とも考えていました。それはほぼ実現したのですが、いい風向きの尾鷲に帰ってこられたことに関しては予想を裏切られましたね。こんなに閉塞感がなくなっているなんて!」
そして、最近増えている尾鷲への移住者について、こんなこともおっしゃっていました。
「地元に戻って農業をすると決めてからも、住居のことはかなり考えましたし、悩みました。結局、知り合いに家を借りることになったんですが。地元出身の人間ですら大変だったのに、移住される方はもっと大変だろうなと思います。そして、この尾鷲を選んでいただいたことに驚き、来てくださった方のパワーにも驚きます。尾鷲にいろんな夢ややりたいことをもって来て、活動して、実績を残して。今まで尾鷲ではなかったことが、少しずつ増えていくのがとてもうれしく感じ、自分もやらねば!という気持ちになります。なので『地元の人』と『よその人』ではなく、もっともっとお互いが密になって、『尾鷲の人』としていろんな楽しいことをできればなと思いますね』
ふるさとが過疎になったり、担い手がいなくなったという問題はとても悲しいことですが、それには原因があると思います。それは単純にニーズがなくなったということ。今の社会では必要とされなくなったり、もっと便利な代用品ができてしまったと考えられます。
確かに生活がより便利になるのはよいことですが、古きよきものが『過去のもの』になり衰退していくのは悲しい。そういった『過去のもの』をなくさないために、さまざまなテコ入れが行われますが、そこにニーズが生まれない以上、継続的な復活はありません。
庄司さんが行う畑の復活はその点において、ニーズから生まれたものであり、これが本当の地域おこしなんだと感銘を受けました。
自分のやりたい事が、地域にのためになる。地元を離れた方や、移住をご検討の方、一緒に尾鷲を盛り上げませんか?
―[移住コンシェルジュ・尾鷲市漁村の田舎暮らし/第6回目]―
郷橋正成さん
京都出身の30代。リゾートスタッフ、漁師、サラリーマン、家具職人などを経て2018年8月から尾鷲市の地域おこし協力隊に。現在、おわせ暮らしサポートセンターで活躍中。