かつての激戦地に100万輪のテッポウユリ。伊江島の「ゆり祭り」が大盛況

―[地方創生女子アナ47ご当地リポート/第50回:池田麻里子アナ]―

全国47都道府県で活躍する女子アナたちがご当地の特産品、グルメ、観光、文化など地方の魅力をお届け。今回は沖縄に移住した池田麻里子アナが、離島、伊江島の「ゆり祭り」と、激戦地であったその歴史をレポートします。

ゆり祭りの開催地はかつての激戦地

ゆり祭り会場の池田アナ

 沖縄北部に位置する離島、伊江島(いえじま)をご存じでしょうか。美ら海水族館がある海洋博公園を訪れたことのある方は、無意識でも目にしたことがあるはず。海の向こう、目の前にまるで、つば広の麦わら帽子でもそっと置いたかのような島があり、その島こそが伊江島です。

 この伊江島、毎年GWの時期に「ゆり祭り」を開催しており、県内外から多くの来場者を迎えます。ただただ美しくどこまでも広がる藍の海をバックに100万輪以上ものユリの花が咲き誇る姿は、一見の価値があります。

 しかし、こんなすてきな景色を見せてくれる伊江島、じつは第二次世界大戦で唯一の地上戦となった沖縄のなかでも、とくに激戦地でした。美しい景色のそばにいつもあるその傷跡とともに、伊江島がどんな島なのかを少しでもお伝えできたらと思います。

100種のユリは圧巻。クルマごとフェリーがおすすめ

ユリ祭りの様子

 コロナの影響で去年まではイベントもなく縮小開催されていた「伊江島ゆり祭り」。2023年は4年ぶりにコロナ以前と同じ規模で4月22日~5月7日に開催され、大盛況で幕を閉じました。

 伊江島は、沖縄本島北部の本部港からフェリーで30分で到着する島ですが、ゆり祭りの時期は非常に混み合うため、満席でチケットが取れないこともあるほど。クルマごとフェリーで渡るのがおすすめですが、事前予約必須です。筆者は、なんとか事前に予約がとれ、4月29日(土)から家族で1泊、伊江島を満喫することができました。

 島に到着するとそのままクルマで一気にゆり祭り会場へ。伊江島は、面積22.75㎢、周囲22.4kmほどで、ゆり祭り会場は港からほぼ反対側に位置しますが、クルマであれば15分程で到着します。

 ゆり祭りの時期は、港からゆり祭り会場や島内の主要スポットで停車してくれる無料シャトルバスも出ているので、日帰りで来られる方が大半です。
 島の特産品であるサトウキビや葉タバコ、島ラッキョウや落花生などの畑が広がるのどかな風景を眺めていると、あっという間にゆり祭り会場のリリーフィールド公園へ到着します。

 約2万6000坪もある会場には、名産のテッポウユリから始まり、世界中100種類もの色とりどりのユリが出迎えてくれます。会場は断崖の高台に位置するため、眼下に広がる海を背景に100万輪ものユリに囲まれながら、今年はステージイベント、飲食の出店、子どもが遊べる遊具などの設置もあり、にぎわいを見せていました。

手厚く管理されているテッポウユリ

テッポウユリ

 ゆり祭りのメインとなるのはテッポウユリです。じつは昨今、病気などで個体数が激減しているそうで、再び数を増やすために手作業で愛情込めて管理されています。

 まず、ゆり祭りが閉幕するGW後に球根を掘り出して、きれいに洗って消毒します。そして3か月間、室温26〜28℃に保たれた部屋で保管。来季もまた咲いてもらうために準備をするのだそうです。そして、増やすためにはウロコ状になっている球根の鱗片と呼ばれる一片を切り離して土に植えて大きく育てて…と、手をかけて増殖させているそうです。

 100万輪もの花を咲かせるユリ、そして100種もの世界のユリ。ものすごく手がかけられて管理されているのがわかります。にもかかわらず、このゆり祭り、入場無料でだれでも見学できるんです。管理してくださっている島の皆様には感謝しかありません。

第二次世界大戦の犠牲になった伊江島

平和で美しい、かつて戦場だった島

 さて、美しいユリが咲き誇る伊江島は、第二次世界大戦の沖縄戦では沖縄戦の縮図とも言われるほどに、もっとも激戦となった地です。戦前7000名ほどいた村民(島民)のうち3000名が沖縄本島の本部半島へ疎開。残る約4000名の村民たちは戦火に巻き込まれました。

 村民のなかから1000名もの成年男子が義勇兵として駆り出されて戦闘班が編成され、手製で急造の爆雷や手榴弾、竹槍や小銃を手に戦闘に駆り出されました。爆撃を背負って敵陣へ乗り込むという肉弾戦も繰り広げられ、最終的に伊江島では日本兵2000名、村民1500名、合計3500名もの犠牲者を出しました。つまり、残っていた村民の約40%が犠牲となりました。

 この戦闘で島内のほとんどの建物が破壊されました。生き残っていた村民も、避難していた自然豪の中で集団自決に追い込まれたり、スパイ容疑をかけられ処刑された人もいたそうです。避難民としてほかの離島へ命からがら収容された場合でも、栄養失調で亡くなるなど、犠牲者は途切れることがありませんでした。

 そして、戦後は島の35%もの敷地が飛行場など含め米軍の管理下にあります。史跡や傷跡をめぐるたびに、こんなに小さな島でこれほどまでの戦いがあったかと思うと胸が締めつけられる思いです。犠牲者となった方々のおかげで今の日本があり、今ここに立っていると思うと、繋がれた命に感謝の思いでいっぱいになります。

防空壕の千人ガマと、唯一残った建物跡

ニイヤティヤガマ

 伊江港から5分ほど、伊江村川平集落の西側の海岸にニィヤティヤガマ(ニィヤティヤ洞)があります。ここは、海上からは大きな岩で死角となっており、戦時中は村民の防空壕として利用され、多くの命を戦火から守ったそうです。内部がとにかく広く、1000人は軽く収容できる広さであることから「千人ガマ」とも呼ばれています。内部には、女性が持ち上げると子宝に恵まれるという言い伝えがある石もあります。

公益質屋跡

 続いて、公益質屋跡。こちらは、政府の融資を受けて設立された質屋ですが、激しい戦火のなか、伊江島で唯一原型を留めることができた建物だそうです。一目瞭然…どれほどの激しい戦闘がなされていたか、想像するのが恐いほど。鉄筋コンクリートの壁は破壊され、穴だらけに。数えきれないほどの銃弾の跡。現代の日本の平和な環境からはとてもじゃないけれど考えられません。この建物を前に、あまりの衝撃に言葉のひとつも出てきませんでした。

湧出

 最後に、戦争の傷跡とは少しずれますが、昔から水の確保に困難した伊江村民にとって、命の水を供給してくれた「湧出(わじー)」に触れておきます。ここは島の北西岸に位置し、60mもの断崖絶壁の下の波打ち際から真水が湧き出る希少な場所です。戦後は米軍の手により輸送管路が整備され便利になり、水不足に悩んだ島の助けになったそうです。正直な気持ち、戦争なんかせずに、同じ地球人なんですから最初から仲よくしようよと思います。

 ちなみに現在、湧出から出る水を使った「イエソーダ」という島の定番土産があります。この炭酸飲料「好きだって言えそうだ(イエソーダ)」ということで、ダジャレを効かせた告白飲料としても地元では名を馳せています。そして伊江島の水事情ですが、現在は本部半島とつながる海底送水があり、水不足に悩むことなく村民は生活ができています。

世界でも稀少な岩山、伊江島タッチュー

伊江島タッチュー山頂から

 伊江島最大の特徴といえば、島のほぼ中央東寄りに位置するシンボルの城山(ぐすくやま)、通称、伊江島タッチューです。海抜172mの岩山であるこのタッチュー、島の歴史よりも7千万年も古いとか。世界でも珍しい、古い岩盤が新しい岩盤に潜り込む中で一部が剥がれて新しい岩盤の上に乗るという、オスクレープ現象によって形づくられた岩山だそうです。

 この現象、理論では語られていたそうですが、今のところ実在することが世界で確認できているのは伊江島だけなんだとか。外からは見る角度によって違う姿を見せるため、かつては航海の際に海上での位置確認の目印となったんだとか。現在は山頂まで階段が整備されており、登ることができます。15分ほどの登山ですが、急な場所も多く、行き交う人々が息切れしていました。

 山頂は絶景で、伊江島をぐるりと一望できます。本当にこんな美しい小さな島で激戦が繰り広げられていたのかと、あらためて胸が締めつけられました。ゆり祭りを目がけて伊江島を訪れる人が多いのですが、ぜひ一度でも、歴史に思いをはせてもらえたらなと思います。筆者は移住するまでなにも知らなかったことを恥じました。

 南部の平和記念公園や姫百合の塔のほかにも、北部の離島、伊江島のことを多くの人たちに知ってもらいたい。観光で海洋博公園を訪れる際には、目の前の海に浮かぶ伊江島を眺めながら、ぜひ戦争の歴史の上に自分たちがいることを思い出してほしいと思います。

<取材・文・撮影/池田麻里子>

池田麻里子さん
東京・埼玉・宮崎・沖縄を担当。テレビ宮崎の「スーパーニュース」でスポーツキャスターを務め、J:COMデイリーニュース担当、ネットニュースなどにも出演。現在はFMやんばるにてパーソナリティーを務める傍、話し方・見せ方・聴き方などのコミュニケーション力向上の講座を開き、講師も務めている。

―[地方創生女子アナ47ご当地リポート/第50回:池田麻里子]―

地方創生女子アナ47
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