市民グランドに縄文の炎を燃やして土器を焼く、一関市の「藤沢野焼祭」

岩手県一関市で市民がつくった土器をグランドで焼く、というお祭りが毎年8月に開催されます。巨大な炎があがるこのイベントを、現地に移住した遠藤史佳さんがレポート。

縄文をテーマにした夏祭り「藤沢野焼祭」

藤沢野焼祭の炎

 岩手県一関市藤沢町は岩手県と宮城県の県境に位置し、特産品のリンゴが有名。観光農園「Ark館ヶ森」や「岩手サファリパーク」には県外からも観光客が訪れます。
 普段は農業と観光で穏やかな藤沢町ですが、藤沢野焼祭(ふじさわのやきさい)がある毎年8月第2土曜日と日曜日は、町の中心にある市民運動場が炎に包まれます。その情景は、まさに圧巻。自然の恐ろしさと壮大さを、熱波と轟音、匂いなど全身で感じることができます。

祭り後も炎を絶やさない様子

 藤沢野焼祭では、町民が粘土で縄文土器を模してつくった作品を、窯で一晩かけて焼きます。多くは町内や市内など近隣住民の作品ですが、県外、遠方だと関東地方からの作品もエントリーされ、持ち込まれます。2023年度は約600作品ものエントリーがありました。

 土器を焼くための窯は縦8m、横4mにもなります。これが市民運動場に9基、円を描いて並び、その中央に、「縄文の炎」と名づけられた高さ2mを超える丸太組みのモニュメントを設置。その巨大な9基の穴窯と丸太のモニュメントが、ゴオゴオと音を立てて燃え盛ります。

 昭和51(1976)年に考古学者の塩野半十郎氏(故人)が藤沢町を訪れ、縄文式竪穴住居の復元に取り組んだことをきっかけに、縄文をテーマにした夏祭りを藤沢町の伝統にしようとスタート。現在まで47回続いています。
 芸術家の岡本太郎氏が1990年に第15回藤沢野焼祭を訪れた際には、「ここには縄文人がたくさんいる。縄文の原点が藤沢であってほしい」と絶賛し、自身の作品ブロンズ像「縄文人」を町に寄贈しました。

地元住民が2週間かけて会場づくり

窯をつくる様子

 お祭りの準備は8月に入るとすぐ、窯づくりから開始。大量の土の山がグラウンドに9か所積まれていき、穴窯の形に成形されます。大部分は重機(ショベル)の平らな部分を押しつけることで固められますが、段差などの細かい部分は人の足で踏み固めます。その様子はまさに職人技。そして中央に、丸太組みのモニュメント「縄文の炎」も、重機と人の手で組まれていきます。

丸太組みのモニュメント”縄文の炎”

 この作業を担当するのは、地元の土木・建築・林業関係の業者さんたち。7つもの業者がボランティアで協力していることを知ったときには、地域のつながりの強さを実感しました。普段は道路や建物専門で、当然ながら窯をつくる仕事ではないですが、「毎年のことだがらなぁ」と迷いなく、さくさく窯をつくる姿はプロの仕事です。

テント張りの様子

 1週間程度で窯は完成し、次は祭りの参加者の休憩スペースに使うテント張りです。重い鉄パイプを10本以上も組み合わせるテントを46張り立てていきます。この作業には市の職員が5名と、自治会の有志が44名も集まっていました。毎年のことだからか、説明など不要なのでしょう、なんとなく指示役の人ができ、自然と連携しながら、困っているところは助け合って、無駄のない動きでどんどんテントが立ち上がります。

 平日に行うため、仕事を退職した60歳以上の人が多数。とくに多かったのは自治会長や区長などの自治会役員さんたち。「暑いがら来たくながったんだけんど、自治会の顔としていかねばなぁ」と、義理堅いのに素直じゃない藤沢のおんちゃん(おじちゃん)たちが大好きになりました。

大雨に見舞われた祭り当日

ブルーシートの中で作業中の様子

 そして迎えた当日。作品を一晩かけて焼いていく2日間のお祭りの始まりです。2日目には作品の審査があり、入賞作品の表彰式が行われます。13時から受付開始、14時30分から窯入れが始まります。火がつく前の窯に参加者の作品が、自治会担当者によってどんどん並べられます。

 土器はよく乾いているほどきれいに焼けるといわれており、雨は大敵ですが、私が参加した2023年度は残念ながら雨でした。そこで作品を守るために窯の入り口にブルーシートをかぶせ、大きく重いブルーシートを担当者が開けて閉めて、雨水と土で泥だらけになりながら作品を入れていきます。

中学生の火起こし

 いつもより重労働な窯入れ作業は予定より30分遅れて完了し、17時30分から点火式がはじまりました。地元の中学生が縄文人に扮して行う縄文式の火起こしは、平たい長方形の板の上で細長い棒を回転させ、摩擦熱により着火させる方法です。このときの5名の中学生は、点火式が始まる前に「緊張するから練習する!」と真剣な様子でした。

 雨は点火式の開始直後に大雨に変わり、板が濡れてなかなか火がつきません。やっとのこと点火したときには見物客から拍手と歓声が沸き、中学生も安堵の表情を浮かべました。その後も中学生のマーチングバンド部による演奏や住民による太鼓、スコップ三味線など多種多様なイベントが予定されており、普段は屋外で盛り上がるところ、雨で体育館に移動せざるを得なかったのは残念でした。

力を合わせて火を守る様子

 21時には閉会を迎ましたが、火のまわりにはまだたくさんの人が残ります。「焼成員」(しょうせいいん)と呼ばれる自治会のボランティアで、火を絶やさないように「バタ材」と呼ばれる薄い板を投げ入れたり、窯のふちに並べます。私も少し体験させてもらいましたが、窯のそばまで行くと焼けるように熱く、目が開けられませんでした。焼成員の役目は23時頃まで。あとは自然に火が消え、熱された土が土器をじっくりと焼いてくれます。翌朝、焼きあがった作品の審査と表彰があり、2日間にわたる祭りは終了です。

祭りの価値と、継続への課題

焼き上がりを取り出す様子

 普段はそれぞれで活動している藤沢町の周辺自治区の住民が、祭りの準備には当たり前のように集うことからも、祭りが地域をつなげる重要な役割を担っているのは確かだと思いました。年に一度は祭りで顔を合わせて協働することで、自治区を超えたかかわりが生まれ、祭り以外の有事の際にも、自然に連携が取れるようになるのだと、一緒にテントを張って感じました。

 また、祭りは町を出た人が帰省する理由にもなり得ると思いました。祭りの最中、あちこちで「久しぶり」「帰ってきてたんか」という声も。約束をせずともそこに行けば懐かしいだれかと会える場所があることが、町から出た人を帰ってくる気にさせているのかもしれません。

 一方で、これだけの規模の祭りを開催するために、町が限界を迎え始めているということも強く感じました。藤沢町は65歳以上の高齢者の割合が40%を超える超高齢社会です。テントを張りに来たのも、バタ材をくべていたのもほとんどが65歳以上で、一部の自治会からは「体力的に厳しい。もうそろそろ終わっていいんでねえか」という声が上がってきているそうです。これは祭りに限ったことではなく、地域行事全般でみられる問題であり、取り組むべき課題です。

 藤沢だからこそできる、この壮大な藤沢野焼祭に、これからも関わり続けていきたい、守っていきたい、そう強く願っています。みなさんもぜひ、藤沢野焼祭に遊びに来てください。

<取材・文/遠藤史佳>

【遠藤史佳】
滋賀県草津市出身。23年住んだ地元滋賀県を離れ、2023年に緑のふるさと協力隊に参加。岩手県一関市藤沢町に派遣され、1年間の農山村ボランティアに励む。現在は一関市に移住し、まちおこし系法人に勤務。趣味はジャグリング。