全国に県歌と名のつくものは数あれど、県民の8割もが歌えるのはレアケース。長野県歌「信濃の国」の生まれた背景、愛され続ける理由について、地方の新しい楽しみ方を提唱するライター・大沢玲子さんが紹介します。
長野オリンピックでも採用。「校歌は忘れたけど県歌は歌える」
県が実施したアンケート(2015年)によると、地元に住む県民のなんと約8割が歌えると回答――。ご当地限定で抜群の知名度を誇る歌、それが信州・長野の県歌「信濃の国」です。
学校や職場の式典、成人式や各地の県人会のフィナーレに歌われ、ときに結婚式や飲み会の2次会のカラオケで歌われたりすることも。
全国都道府県、県歌はほかにもありますが、住民にさえあまり知られていないケースも多いなか、ここまで認知度が高いのはまさにレア!
一定世代から上の人ならば、学校で徹底的に叩き込まれ、「校歌は忘れたけど、『信濃の国』は覚えている」という声も。また、作詩を担当した浅井洌(あさい・れつ。きよしと読むことも)氏が教諭を務めた、長野県師範学校を前身とする信州大学教育学部附属長野小学校では、校歌として歌われ続けています。
県庁にも「信濃の国」の歌碑があり、さかのぼれば1998年、長野冬季オリンピック開会式の日本選手団入場の際にも流されました。国際的イベントで県歌が流れるとはまさにこれも異例中の異例。
当時を覚えている人はハツラツとした行進曲モードの県歌にのって選手団が歩く様子を見て、「テンションが上がった!」「「故郷を誇りに思った瞬間だった」と振り返ります。
県歌が南北の対立を解消し、一致団結する契機にも
信州では元々郷土愛が強いといわれるので、さすが信州ならでは! と思わされますが、じつはこうした歌が誕生した背景には、県内に根強く残っていた南北のしこりを解消する目的もあったのでは、という説もあります。
歌が生まれたのは1900年。県庁HPによると、当時、教育の場にも日清戦争の影響が及んでいたことから、戦争と離れたテーマの教材とすることを目的に、長野県師範学校に作成が依頼されます。
その後、県内各地で歌われ続けるなか、県民意識の高揚を目指し、県歌に制定されたのは1968年。エリア差が大きいこの地がまとまる「唯一のネタ」などともいわれたりしますが、過去にも県を二分する「分県運動」を鎮静する役目も果たしたというエピソードが伝えられています。
今の長野県は、1876年、県北部・東部の諸県で構成する旧長野県と、中南部の諸県と高山県(飛騨国)で構成する旧筑摩県の2つが合併して誕生。県庁は長野市に置かれます。
しかし、それぞれのエリア愛が強いゆえというべきか。筑摩県庁(松本市)が原因不明の火事で全焼した落胆と不満が、一部の旧筑摩県民の間で広がった影響もあったのか。たびたび県庁を移す「移庁」や「分県」を目指す運動が行われます。
そして分県論が再燃した1948年。あわや本会議を分県案が通過しそうになった際、傍聴席から「信濃の国」の大合唱が沸き起こります。
その勢い、歌に込められた思いに心動かされた分県派の議員は、分県案を断念したといわれています。