北海道札幌市で生まれ石狩市で育ち、東京や中国・天津市でもさまざまなキャリアを積んだ後、2021年の暮れに北海道天塩町へ移住。地域おこし協力隊を経て、鍼灸師として活動する三國秀美さんが、日々の暮らしを発信します。今回は天塩町の熊ハンターをレポート。
「日の丸旅館」を営みながら50年以上ヒグマを追い続ける
翌日は協力隊着任式という2021年11月30日、初めて天塩町を訪れた私が宿泊したのは「日の丸旅館」でした。バスターミナルからほど近く、先代から町のおもてなしの場として機能してきた宿。出張・長期滞在者を中心とし、観光者も地元の食材を楽しめる旅館です。
旅館に嫁いで以来、第一線で切り盛りしている女将さんは、現在は次男の妻である若女将にその座を引き継ぐべく、食事の味つけから接客までを伝授している最中です。
その女将さんが洗い物をするそばにいたもの静かな男性が、夫の高田壽裕(としひろ)さん。50年以上もヒグマを追いかけている現役のハンターです。
高田さんは今年73歳。どうみても60歳くらいにしか見えず当主だと気づきませんでしたが、若々しいのは、きっとよく体を動かし、ジビエから良質な栄養をとっているからでしょう。
女将さんに高田さんの武勇伝を聞くと、次から次へとエピソードが飛び出します。「長男を産むときに、陣痛が始まったのでクルマで稚内市の病院へ送ってもらったら、荷物を置くやいなやヒグマを撃ちに行っちゃって」
天塩の自然を知りつくし、体力は衰え知らず
ハンターとしての高田さんは、迷彩柄など、いかにもそれらしい服装はしません。ジャージと長靴で春山のヒグマが冬眠から目覚めるころに、息子たちと山を歩きます。その姿は親グマと子グマの散歩のよう。北の大地にいるこうした家族の存在は、さらに天塩町が好きになった理由のひとつです。
以前、テレビ番組のクルーが白いシカを撮影できるまで高田さんがガイドしたことは、町内外で有名な話。天塩ならどんな起伏も頭に入っているのだそう。
高田さんは少年の頃から天塩を駆け回り、釣りや山菜採り、そして狩猟と、遊びながら地元の食を知りつくしてきました。高校時代にはビーチサンダルで標高1721mの利尻山に上った強者で、とにかく体力の衰えとは無縁です。
女将さんによると、「多分、息子たちより夫のほうがまだまだ体力はあるわね」。私は、たまに高田さんの右肩の古傷に鍼治療していますが、鍛えられた筋肉を望診(皮膚のツヤなど東洋医学的な診たて)すると、人体についてたくさんの学びがあります。
日の丸旅館は一貫して「地元のおいしいものを提供したい」と、手料理でもてなします。タイミングよくジビエが出たら、ラッキー。高田さんは、エゾシカなら2歳までのオスで、9月初旬から11月下旬までに捕獲した個体のみを提供するというこだわりよう。ヒグマに関しても肉のうま味が落ちないよう、急所だけを狙うことにしているそうです。
日頃は笑顔が多い高田さんは、私たちにハンターの目つきを見せることはありません。ヒグマと出くわしたら、クマ笛を吹く、クマよけスプレーをこう使う、など難しいことはいわず「まずは逃げること」と言いきります。ハンターは奥が深そうです。
3月に入り、町で高田さんを見かけて話しかけると、「今日も見回りに行ったけど、ヒグマはまだ歩いてないね」。雪解け前後は毎日誰よりも精力的に活動しています。
遊びながら子どもたちに自然を体験させる
高田さんは、遊びのなかで息子や孫たちに雪山の歩き方などを伝え、次世代を育みます。
先代から、場所や成分表を密かに伝えられてきた所有地内の源泉。どんなに効能があっても、天然ガスが同時にわくため危険で、将来的に公開できるかは検討段階だそうです。
「筒状の穴にわく源泉は30℃くらいで入ると寒かった。首を外に出さないと吹き出すガスで危なかったかも。源泉から上がったあと、足の裏が凍りそうでジタバタしていると、息子に笑われてね」。こともけなげに高田さんは語ります。
年に一度は自分でチラシをつくり、孫だけでなく小学生みんなに声をかけ、別荘の敷地で雪遊びが行われます。スノーモービルをもつ若者にも声をかけ、バナナボートで遊んだり、みんなでパン食い競争などのゲームをしてお菓子をふるまうのも、高田さんの優しい一面です。
「まだまだ遊びたい」と話す高田さん。遊ぶというのは五感を使って自然を知ること。狩猟や釣りだけでなく、山菜を採り、家庭菜園で野菜をつくる背中は、今ある自然と常に対話しています。このシンプルな生き方を見習いたいと思いました。
<取材・文・写真/三國秀美>
【三國秀美(みくにひでみ)さん】
北海道札幌市生まれ。北海道大学卒。ITプランナー、書籍編集者、市場リサーチャーを経てデザイン・ジャーナリスト活動を行うかたわら、東洋医学に出会う。鍼灸等の国家資格を取得後、東京都内にて開業。のちに渡中し天津市内のホテル内SPAに在籍するも、コロナ感染症拡大にともない帰国。心機一転、夕日の町、北海道天塩町に地域おこし協力隊として移住し、任期終了後に「天塩鍼灸指圧院」を開業。